JBA 南カリフォルニア日系企業協会 - Japan Business Association of Southern California

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大須賀 明さん

North American Production Sharing, Inc. (NAPS)
Vice President- Marketing and Customer Service
大須賀 明さん

1953年福岡県生まれ。東京外国語大学スペイン語学科卒業後、建設機械メーカー勤務を経て、1985年にメキシコへ渡航。メキシコシティーにて航空会社などに勤務した後、95年よりティファナにて製造業界で勤務。2012年にNAPSに移り現職。

日本を飛び出し メキシコと日本の架け橋に

自分と家族の幸せが最優先
日本を出てメキシコへ

大須賀 明さん
大学はスペイン語専攻でしたが、本格的に勉強し始めたのは大学生活も後半になってから。その時に語学の勉強のため、友人から紹介してもらったメキシコ人女性とペンパル、つまり文通を始めたんです。便箋5枚びっしり書いた手紙を週に3回は送っていました。返事は時々一言二言書いた絵葉書が来るくらいでしたが…(笑)。

合計4年間、大学を卒業し就職してからも文通を続け、1980年の年末にメキシコを訪問。約2週間滞在し日本に帰る日に半ば冗談みたいにプロポーズをしたところ、翌年のバレンタインデーに電報で返事が来てその年の末に結婚。私は仕事をしていましたのでメキシコにすぐに行けるわけでなく、彼女が日本に住むことになったのですが、日本なんて彼女にはまるで未知の世界ですから大変な決断だったと思います。

しかし当時の日本では残業は当たり前で毎晩毎晩帰りが遅い。メキシコ人の妻にはなぜそんな働き方をするのか理解できませんから、「愛人が何人いるの?」と詰問される始末。結婚生活が破綻を来そうとしている時に、せっせとサラリーマンをやっていても仕方がない。私の人生の生き甲斐は、仕事よりも自分と家族の幸せ。アメリカ・ファーストならぬマイセルフ・ファーストなんです(笑)。それで会社を辞めて日本を飛び出し、メキシコシティーに行ったのです。

 

メキシコと日本のため
日系企業の進出を支援

妻の友人の小さな会社で2年ほど働かせてもらったのですがインフレがひどく、働いても働いても日本に一時帰国するお金も貯まらない。それで航空会社で働いたら無料で日本に行けるかなと航空会社に転職。そこでは8年くらい働き、営業、販売促進、広報などいろいろやらせてもらいました。しかし次第にメキシコシティーの治安が悪化し、大気汚染もひどくなってティファナに移動することに決めたのです。

95年にティファナに来てからは2012年にNAPSに移るまでずっと日系の製造会社に勤務しました。メキシコで製造業を営むことの難しさは、税制、移民法、労働法、安全環境規制などが本当に頻繁に変わること。ほかの難しさとして、メキシコ人の働き方が日本人に比べるとルーズだという点はありますが、いちいち腹を立てていたら生きていけません。メキシコ人と一緒に働く上では、当たり前のことでも何度もお礼を言うとか、人前で叱ったりせずほめるとか、うまくいかせる方法がいくつかあります。

しかし法律に関しては非常に頻繁に変わるので対応が難しく、ある時点では合法的な操業をしていた会社が、ふと気付くと違法な操業をしているということが発生しかねません。それを防ぎ合法的な操業ができるように支援しているのがNAPSで、たまたま勤めていた会社が顧客だったことからNAPSを知り、日本語とスペイン語の両方を使ってもっと広く日系企業のお手伝いができないかと思い、NAPSに移ったのです。

近年は多くの日系企業がメキシコに進出しており、ありがたいことに平日はほとんどメキシコに出張していて、自宅のあるサンディエゴに戻れるのは週末だけという忙しさ。ですが、やはり日系企業の進出支援を通して、日本とメキシコの交流の架け橋になれるのはうれしいですね。日本の企業がメキシコで良い物をたくさん作り、メキシコの雇用が増え、メキシコと日本の交流が深まっていくのが私の願いです。

North American Production Sharing, Inc. (NAPS)◎1991年設立。現顧客76社。メキシコに進出する製造業に、総務業務の支援サービス(シェルター/アウトソーシング)を提供し、合法操業を保証している。

大須賀 明さん
妻と二人の息子と。「人生の生き甲斐は、自分と家族の幸福」と大須賀さん。

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