JBA 南カリフォルニア日系企業協会 - Japan Business Association of Southern California

サイト内検索

河村 直樹さん

International Transportation Service, Inc.
Chairman & CEO
河村直樹さん

1952年生まれ。上智大学経済学部卒業後、74年の川崎汽船株式会社に入社。経理、集荷セールス、船の運航などの業務を担当後、87年から4年弱シアトルに駐在。帰国後はコンテナ船事業の運航全般を管理し、2000年以降、IR広報、および港湾事業で部長職を務めた。10年、米国赴任。

運命に引き寄せられた 2度のアメリカ駐在

夢を断たれた災難
そしてアメリカへ

河村 直樹さん
アメリカへの赴任は2度目。1度目は1987年から4年弱、シアトルに駐在しました。母方の祖父も海運会社勤めで、戦前にシアトルに駐在していました。しかし太平洋戦争が開戦。家族は開戦前に帰国していましたが、祖父は取り残されてモンタナ州ミズーラにあった収容所に抑留されました。約8カ月後に交換船で帰国が叶ったものの、会社の船は戦時徴用されて沈没し、戦後、祖父が海運の仕事に戻ることはありませんでした。母は私が小さい頃から「シアトルは良かった」「船会社は良いところでアメリカにも行けてね」と繰り返していたのですが、私が船会社に入ったのは、それに洗脳されたせいでしょう(笑)。

船会社に勤めるからには船の近くで仕事ができると思ったのに、最初の配属は経理でなかなか船のそばに行けない。7年後に集荷セールスに異動し、その後には船の運航を担当と徐々に船に近付いていきました。そして87年、シアトルに家族と共に赴任。日本では残業も多く、家庭のことは妻に任せがちでしたが、アメリカでは英語が必要になる場面もあり、学校や病院など妻の代わりに私が出て行くことも。おかげで「父ちゃんすごい」と家族が私を見る目も変わりました(笑)。この駐在のおかげで、父親としての威厳が確立できましたね。駐在の間には母が50年弱ぶりにシアトルを訪れ、祖父から私の子どもと4世代にわたってシアトルにお世話になりました。

 

眼前に船。戦う現場の中で仕事をできる喜び

4年間のびのびと仕事をさせてもらったので、帰国したら窮屈でした!でも日本には日本のやり方がありますからそれでやるしかない。帰国後はコンテナ船の運航全般の管理を担当しました。当時の仕事で面白かったのはベトナムでの陸送ルートの確立です。港まで荷物を届けるだけでなくて、道が凸凹で安定的な輸送が難しいと言われていた工場への陸送までを引き受けたのです。いろいろな障害はありましたが現地の有能なパートナーのおかげで、最終的にはベトナムでは初の試みを実現しました。

輸送ルートもそうですが、道は私が通ったもの以外にもいくつもあります。確かに自分のやり方で仕事はできましたが、他にもやり方はある。管理職の仕事が増えるにつれ、自分の道を押し付けていないかと自問自答する機会が増えました。そのおかげか、IR広報なんて今まで何のバックグラウンドもない部門に行った時も「前任者のようにスマートなことは言えないけど、私のやり方でやろう」と居直れましたよ(笑)。

2010年に今度はLA駐在に。まさかサラリーマン人生の終盤になって再び海外に赴任するとは思ってもみませんでした。入社してから約40年、景気の厳しい時期が長く、日本の海運は潰れると何度も言われてきました。それでも川崎汽船がしぶとく生きてこられたのは、早い時期から「脱日本」を掲げ、腹をくくって進んできたからでしょう。海運業は非常に国際的な市場で、海外のプレーヤーとの競争を勝ち抜いていかなければ生き残れないのです。

今、港湾内にある当社の窓からはコンテナ船の荷物の積み卸しが見えます。それを見ていると、日本をはじめ世界各国の経済や貿易の動きが肌で感じられます。景気も売上もここに立てばすぐに分かる。船のそばにいたいと船会社に入った私が、キャリアの最後にこんなに船の近くの現場で仕事をできるのは幸運なことだと思っています。

ロングビーチ港内のコンテナターミナルにて。後ろに見えるのは荷物の積み卸しを行うガントリークレーン

ロングビーチ港内のコンテナターミナルにて。後ろに見えるのは荷物の積み卸しを行うガントリークレーン

=Company Info=

International Transportation Service, Inc.(ITS)◎1971年にロングビーチ港内に、川崎汽船株式会社の子会社として設立された。海陸の接点となるコンテナターミナルを運営し、荷物の積み卸し、保管などを担っている。

私のLAライフ一覧へ

PAGETOP